可能性に形を与えるとお金になる
モノの価値はひとによって違う
一番簡単に考えると、ひとは生きる為に食べる(飲む)。それを満たすために行動をして仲間をつくり、時に冒険をしてきた。いまのわたし達の世界では場所によっては自力で生きることが難しいひとにも手を差しのべている。しかしそれも余裕があればこそ!
ほんの半世紀前まで東南アジアには知られていない部族がいたそうです。そこでは年老いて自力で歩くことが出来ない者は、移動時にはその場に置いていった。
自然は厳しいものです。ひとりを助ければ助けた者の行動は制限されて、食料を確保する労働力も奪われる。
それが何世紀も繰り返されれば、それは当たり前のことになる。
わたし達が住んでいる地域、状況で判断すれば、それはどうなの?と考えてしまうでしょうが、彼らが住んでいる地域の状況、その環境などはわたし達とは違う。多くの人間を生かすために(集団の未来)彼らは判断する。
善悪、良い悪いの二元論で考えると答えは出ない。
線を引いたように善悪がこの線(事、条件など)から決まる!ことになっていない。だから昔の日本のようにそこには淡い境界線が有効に働いていた。
それを是とするかは、それに価値を置くかどうかで決まる。
情報は使い方で結果が変わる
金融の世界では情報はとても大切な判断基準となる。
しかし、それをどう取るかによって買いか、売りか?ひとによって違う結果を出す。アメリカの金融危機の時、一部のひとは現状がおかしいと気づいたそうです。そして日本がバブルに踊って、株価が3万円を超えるころに、やはりおかしいと感じて全ての株を売った個人投資家もいたそうです。(彼は長い間その世界で生きてきたひとだった)
わたし達は同じ池の中にいるようなもの。
その池が徐々に濁っていっても、それは昨日との違いが分らないほどの濁りなので気づかない。そこに日照りが続いて酸素が減り藻が茂り、少しずつ息苦しくなって死んでいく。
池の中の生物と違ってわたし達は考える脳と親切にもたくさんの情報がある。その情報も普通に手に入る内容からで十分未来を予想(想像)することができる。
あなたにとっては価値があるモノ(物・者)であっても他人にとっては価値がないもの。その反対に他人は価値があると言っていても、自分には価値を感じないモノがあると思います。
それは価値の置き方の違いだけでどちらも無価値かも知れませんが、同時にどちらも貴重なモノかも知れません。
そんな世の中でも絶対的に価値があるモノがあります。
それは時間!
それは増やすことも、残りがどれだけあるかも知れない。そして全てのひとに平等に減っていくモノ。そこには可能性というモノだけが存在して、形を与えられ、システムを作ることで価値を生み出す。
ひとは時間を短縮する術(自動車、製造器、飛行機、ネットなどなど)に対して価値を置き、そこに対価として料金を支払ってきた。それが陳腐化するまでは高く評価され、行き渡ればそれなりになる。
その行動で出来た時間をどのように使うか?
それを有効に使う使い方だけは誰も教えてくれない。
それは自分の欲すること次第。
どうせいくらお金があっても、健康な身体を持っていても、時間の流れだけは逆らえない。その時間をどれだけ有効に使うか(自分にとって)は自分で決めるしかない。
できれば死ぬときに、やりきった感を持って死ねるように時間を使いたいですね!
最後まで
読んでいただき有難うございます。
これからよろしくお願いします。