人(子ども、社員)を育てる思考力

テストで0点を取った自分でも、1,300冊の本から考える力が貰えた

報道はセンセーショナル

孤立とは他者がいるからこその言葉

 

 少子高齢化の状況は

 年を重ねたひとが最後を迎えるひとの数が

 これから人生が始まるひとの数を

 上回る状況が続くことになる。

 

 過去の記録において

 そんな状況を経験したという

 記述が無いから

 (あるかも知れないが知らない)

 わたしたちはどうすれば良いか迷う。

 

 それは過去において

 人口ボーナスの益を受けた証拠でもある。

 

 その益を受けた人達が

 その最後を迎えるにあたって

 どのような生き方、死に方をすればいいか?

 そんな正解のないことに

 頭を悩ましている。

 

 現在のように

 医学が発展していない時期、

 人類はどんな最後を迎えていたか?

 

 怪我をすれば、

 ときにその怪我が原因で死でんでいたし、

 外傷がないのに、苦しみ始め

 最後を迎えたひともいたことでしょう。

 

 西洋医学で一番発展したのは

 検査技術だと思います。

 それが発展、確立されたからこそ

 なぜ苦しんでいるか?

 なぜ高熱が出るか?

 なぜ意識がなくなったのか?

 その状況から原因を探ることが出来るようになった。

 

 それは幸せなことだと思います。

(ただし個人的な感情として)

 その代わりに

 以前なら緩やかな世代交代がおこっていたことが

 いつまでも上が塞がり、

 社会の新陳代謝が進まなくなった!

(お笑いの世界ではたまに聞く話)

 

f:id:E-SHAO:20190923075106p:plain

 孤独死の反対語は?

 

 そんなものは存在しない。

 家族に看取って最後を迎えるのは

 病で入院しているか、 

 家で面倒を見てもらっている場合。

 

 家で最後を迎えるにしても

 各個人に部屋が与えられ

 その部屋で各人が生活していては

 いつのまにか死んでしまう老人がいてもおかしくない。

 これも孤独死

 

 例え一つ屋根の下に住んでいても

 その状況を知る位置にいなければ

 救えるものも救えないし、

 看取れたはずなのに、

 最期を看取ることはでいない。

 

 今生きているひとの中で、

 家族の最後を看取った、

 という経験をしたひとがどれほどいるでしょうか?

 

 ドラマの見過ぎで

 ひとの最後に立ち会うことが

 当たり前と思い込んでいるかもしれません!

 

 自然界では

 各生物が他の生物の糧にならずに

 最後を迎えることは希だと思います。

 たとえ寿命を真っ当しても

 死は各生物自身に訪れる当たり前の出来事!

 

 それを特別扱いしても

 事象はなにも変わらない。

f:id:E-SHAO:20190924192351j:plain

死を否定する医師

 

 あるお年寄りが

 そろそろ自分の最後を感じ取り

 部屋に水だけを置いて

 横になってお迎えを待っていると、

 医師が駆けつけて

 蘇生をしたそうです。

 

 するとそのお年寄りは

 医師をにらめ付けて

 「何をするだ!」

 という目をして不満を漏らしたそうです。

 

 自分の最後を感じ取り

 それに備えて、

 最後を受け入れる。

 それは自殺とは言いません!

 

 しかし、多くの医師は

 「死は自身の敗北」

 と考えているようです。

 ならば、医師で負けたことがない者はひとりもいない!

 

 報道で孤独死に着目しても

 過去にはそんなひとはごまんといたことでしょう。

 

 孤独死の問題とは

 その亡くなったひとの遺体をどうするか?

 その亡くなった場所の後始末、

 遺品をだれが整理するか?

 亡くなったひとの話ではなく、

 残されたモノや事が本質だったりする。

 でも、そのことには触れない。

 

 なぜなら、

 死は不浄なものとして

 触れることを避けてきた世の中だから。

 

 物を増やせば

 幸せにならないことは

 分かってきた。

 では、どのように生きれば

 良き最後(自分にとって)を迎えることができるか?

 それを各々考えてみると

 どのように生きれば良いか見えてくる。

 

 あなたの生き方は

 どんな最後を迎えることができるでしょうか?

 

 

 最後まで

 読んでいただき有難うございます。

 

 これからよろしくお願いします。